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- 2021.06.23 Wednesday
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ここ最近、とても生きやすくなっていることに気づく。
今までは、「〜しなければ、ならない」が以外に沢山あったな。
白黒ハッキリさせないといけない性分で、グレーなんて有り得ない。
極端だけど、0か100か。
ここ最近で言うと
「ヨガの先生になったから〜じゃないといけない」
「アーユルヴェーダをしてるから、人に教える立場だから、ベジタリアンにならないと」
でも、最近はグレー大歓迎
何故だか考えみると、
判断することを止めたのが大きなきっかけのように思う。
とは言え、自分の中の価値観(善悪の判断)はあるので、仕方ない部分もある。
ただ、その判断を持って、その物差しの骨組みや精度を見ていくようになった。
そうすると、いつの間にか
その判断さえ、客観的に見ることができるようになったの。
「そっか。私はこんな過程、経験を得て成長した。そうすると人は、こんな風に考える。だら、それを持って、こんな風に解釈するのか」と。
そうすると、私の中の判断基準では、「有り得ない」と思っていることも
「有り得る」ようになる。
だって、私と同じように「異なる」経験を持って、そう判断しているから。
「客観的にみる」ってとても難しいことだ。
仕事場での「私」
母としての「私」
父としての「私」
子どもとしての「私」
配偶者としての「私」
恋人としての「私」
どれが、本当の私なのかと聞かれたら、どれも「私」で、
見てくれる人がいて(他者との関係性の中で)成立する。
忘れちゃいけないのが、「自分は〜な人」って決めちゃいけないってこと。
自分よりも他人の方がよく分かることの方が多い。だって客観的に見れるもん。
全てのことに意味がある。
なかったことにしていいことなんて何もない。
自分が、原因だと思っていることは、そうでないことがほとんどで(笑)
色々言い訳を並べてみたり、正当化するはやめる。
ただ、これは想像以上に難しく、できている人は多くはない。
インドの哲学者でクリシュナムクティっていう人がいるけど、その人が「そのまま、あるがままでいること」の難しさを説いている。
私はずーと開けてないパンドラの箱みたいなものが内側にあった。
それが少しずつ、溶けていって、光が差し込むようになった。
そのあるはずの箱を「ない」と錯覚させていたのは、私の「ないことにしていた」気持ちだったり、希望だったりする。
この「ないことにしていたもの」は、その時とは、形を変えて、「今」に現れて、私たちを突き動かす。
それが何なのかが分かった時、繋がった時に、今まで必死にしていたことを無意味に感じたり、自分を一歩引いたところから見れたりする。
そうすると、今までと違う選択ができて、箱の中に更に光が入り、周りを覆っていたものが、完璧に溶けてなくなってくる。
ユーミンのやさしさに包まれたらっていう歌が大好きだけど(魔女の宅急便でかかるやつ)
その歌詞の「心の奥にしまい忘れた
大切な箱、ひらく時は今」にドキッとしたな。
誰もが、このパンドラの箱のようなものを持っているんじゃないかと思う。それがあることに気づかない人も多いから、関心が注がれることは少ないと思うけど。
この存在になんとなーく気がついているけど、場所を突き止めれない人は、
この「ないことにしない」ことを
心にとめておくと良いと思う。
私はそれで光が入ってきたな。
そうして、みんなに光が入ると
実際のあるがままを見つめて理解するなら、まさにその理解の中に幸せが入ってる。
眠りに入る前のような
お日様の光に照らされるような
甘いお菓子を口の中に放り込んだ時のような
やわらかい、ふわふわした、思わず笑みの溢れる幸せが。
そーいうのがいいな。
いつも感じていたい。