ヨガスートラ第二章

おはようございます。

 

今日はヨガスートラ第二章(サダーナ・パーダ)について少し読み解いて

 

いきたいと思います。

 



供治気砲蓮

 

無知とは有限、不浄、苦、非我のものを、無限、浄、楽、真我

であると思うことである。

 

とあります。

 

仏教では煩悩は108あると考えられていますが、ヨガではたった5つ

 

その5つの中に無知が含まれていて、無知はその他の4つの煩悩の根源です。

 

そう言えば、スワミジはインド(ヒンズー教)には「罪」という概念がない、

 

「知らなかっただけ」「間違っただけ」なのに、「罪」という言葉を使うと

 

その人のパーソナリティを傷つけてしまう。

 

「罪になるから〜はしてはいけない」という考え方はナンセンスで

 

反対に「〜をすると幸せになれる」「〜は祝福で満ち溢れている」

 

と考えるんだと言っていました。

(だから、インドの物語は最後は全て、パッピーエンドで終わるそうです。)

 

 

 

さてさて、本題に戻りますが、

 

有限のものを無限と思う。

 

限りあるもの、例えば、私たちの命、お金、若さ、自然をずっとあるものを誤解する

 

ということです。

 

日本のことわざにも「いつまでも、あると思うな、親と金」とありますね。

 

不浄を浄と思う。

 

ここで言う、「不浄」とは、なまけてしまうこと、努力を怠ること

 

「浄」とは、頑張ること

 

お金がないから、貧乏だから、親が〜だからという環境、条件に対して

甘えてないか、ということ

 

〜だから仕方ない、で終わる場合は「不浄」

環境を受け入れ、嫌がらずに動く場合は「浄」

 

日本のことわざで言うと「貧乏、暇なし」になれているか、ということかな。

(善し悪しの判断なく、そうすればいいだけというニュアンスです)

 

 

苦を楽と思う。

 

これは、一瞬の楽を味わうために、苦しんでいないかということです。

(苦と楽のご認知)

 

例えば、お酒を飲むと一瞬、楽しくなりますが、アセドアルデヒドという毒が出ます。

 

 

 

非我のものを真我だと思う。

 

自分じゃないものを自分と思うということです。

 

あなたの手は自分ですか?

あなたの心は自分ですか?

あなたの顔は自分ですか?

 

手はあなたから見えているから、自分ではないのです。

 

変わりゆく心は、自分ではないのです。

 

20年前の自分と今の自分は同じですか?

 

「自分とは何か、何者なのか」というのをヨガでは見ていきますが

 

上にある自分ではないものを自分だと思うことで、それを守ることに

 

必死になったり、振り回されたりしてないか、ということです。

 

(例えば、いつまでも若い頃の自分でいたいと思い、顔に注射をしてみたり

無理をした言動をとってしまうとか。)

 

 

皆さんは、上記にあるような勘違いをしていないですか?

 

もし、今貴女の頭を悩ませていることの原因が、このような勘違いにの上に成り立っている

 

としたら、「知らなかった」から仕方ないこと。

 

少し、深呼吸して、何でそう思うようになったのか?

 

整理してみてもよいのかもしれません。

 

 

自分のセルフイメージはどこからきているのか。

 

 

オリンピックなどで失敗する選手は、自分のセルフィイメージがしっかりできていない

 

人が多いようですが、

 

私たちのセルフイメージは母親との関係からきています。

 

「娘の前では父親の悪口は言ってはいけない」等

 

子育ての極意みたいなものがありますが

それは、その時の関係性がその後の人間形成に大きく関わってくるからです。

 

 

でも、大もとのセルフイメージはスピリチャリティ(宗教性)からきています。

 

もし、今のセルフイメージが揺らいでいたとしても、

 

それは建て直し可能ですから、ご安心を。

 

 

今日も良い一日をお過ごしくださいね。